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ラオス 死と隣り合わせで生きること

Living a footstep away from death: Thirty years after US saturation bombing, Laos is still a giant minefield
Padraic Convery
小型飛行機の窓からゴルフコースのバンカーのようなものを見 た。私はXieng Khuang地方の乾ききった田のなかにあるその バンカーらしきものを見て、奇異な印象を受けた。しかし飛行機 が降下してくると、それらはラオスの痛ましい歴史を物語ってと いういることがわかった。バンカーではなくて爆弾の弾孔だった のである。

30年経った今もなお残るその弾孔は、アメリカによる爆撃の 遺産である。ベトナム戦争の九年間に、8分に一回もの爆撃で、こ の静かなアジアの地がもっとも不発弾の多い国にされてしまったことを今も示す遺産なのである。

新しい州都のPhonsavan(旧州都は爆撃でなくなってしまっ た)に行くと、店やレストラン、ガソリンスタンド、またタクシー などにユニオンジャックのステッカーが貼られているのを見か ける。このステッカーは、MAG−この州の人々を傷つけ続ける 不発弾を取り除く英国の民間機関−によるものである。不発弾 (Unexploded Ordnance ;UXO)への警告を表すこの英国旗と MAGのロゴは、特にメインストリートのSangahレストランに 多い。

ここは、この州都でMAGプロジェクトの監督者を務めるポー ル・スタンフォード氏と彼の同僚が晩によく姿を現すレストラン である。スタンフォード氏はキプロス戦争からフォークランド紛 争まで、兵士としての経験を持つ人であるが、ラオスで目にした ものは、彼が数々の紛争で目にしてきた恐ろしいのエピソードよ りも彼を身震いさせるものだった。「ここでの2年半に、22年間 の軍隊時代よりも多くの死を見ました。週1回くらいは、爆弾に 関連した事故が起こります。1ヶ月前にも村で7人の子ども達が 一つの不発弾によって亡くなったばかりです。」

ラオスに残されている爆弾、砲弾、ロケット、地雷の数を正確に 知る者はいない。が、何百万もの不発弾(UXO)が国を脅かしてい ることは誰もが認めるところである。アメリカによって落とされ た200万トン以上の爆弾(Xieng Khuangの住民一人あたり少 なくとも2トンの爆弾が落とされている計算になる)に加え、北 ベトナム軍と、アメリカの支援を受けたロイヤルラオ軍の軍隊 (CIAによって組織されたごちゃまぜの一団)が連合を組んで爆 撃をした結果、ラオスは世界でもっとも厳しい不発弾の国にな り、毎年およそ400の事故が起こっている。

「我々は100以上の異なる型の兵器を6つの国から見つけて きた。これに照らし合わせながら、ここにある地雷全てを取り除 く仕事は大変なものだ。」とMAGのスタンフォード氏は述べた。 1994年にXieng Khuangに来て以来、MAGチームは60000 個の兵器しか破壊処理していない。しかし膨大な数の兵器に対し てこの成果がどんなに小さなものであっても、除去された爆弾一つ一つは、それだけの数の人の命が救われたことを意味している のである。

最も一般的な殺人兵器はアメリカによる対人地雷の塊であり、 それをラオスの人は"爆弾ちゃん"と呼んでいる。この子ども のあだ名みたいな名前は皮肉にも適切なものだと言える。ラオス の毎年約200人の犠牲者のうち、半分近くが15歳以下の子ども だからである。その爆弾は、はテニスボールとだいたい同じ大き さで、何千万個もが一緒に落とされる。ここで見られる13種のアメリカ製爆弾のなかで最もよく見られるものは、100gの高性 能爆薬が鉄のケースに入って埋められているBLU−26と呼ば れるものである。このタイプのものは約9000万も落とされ、3 分の1が不発のままで残っている。ほかの12タイプの爆弾の不発弾数に関しては、次のように言われている。

「ベトナム戦争はアメリカの秘密の戦争であったので、我々は詳しい情報を得ることができません。製造者は最初、これらの爆弾の失敗率、つまり爆発 しそこなったものは全体の10%と見積もった。今ではこの率が もっと高くなり、20〜30%になったと彼らは認めています。つ まりそれが不発の兵器の莫大な数なのです。残された爆弾の塊が100万個という現在の見積もりは、9000万個以上落とされたう ちの20%より遥かに少なく見積もっているものです。」

不発弾は村の中心部で水田や、森林、野原、低木をも荒らしまわる。村人が入浴したり洗濯したりする川からそう遠くない地面で、我々は一 つ目の"爆弾ちゃん"を見た。二つ目は水田の端にある灌漑水 路の中、三つ目は棒を積んだ山の中にあった。土の山の下に埋められた不発弾は子どもたちが"キャップ"と呼んでいるものである。それはもっと大きな爆弾の導火線であり、手足の重みだけで簡単に爆発してしまうものである。

人々が生活している地にあるこれらの不発弾を管理するような 手段は、現在のところはない、と断定しても差し支えないだろう。 この村の中で最年長の少年であるBaiは、300もの爆弾がこの村 にはあると私に言い、そんな恐ろしい自慢話に対する私の反応を 待っているのだった。

Ban DonにはMAGの地雷・不発弾回避教育チームが訪れ、村の人へプレゼンテーションを行ったり、現地の情報を集めたりし て一週間近くを費やした。除去チームもまた、地面にあった焼け こげた不発兵器を始末するのにこの地に3回派遣された。しか し、雨季の雨で表土が洗いざらしにされた後には、"爆弾ちゃ ん"は地上に現われ続けた。Baiは、小さな木の蔭にあるもう一組の爆弾の存在を指し示し、また村の子どもたちは爆発のシーンを身振り手振りで表しながら、死んでいく真似をしてみせた。

若者につきものの好奇心は、確実に、彼らの世代に定期的な数の 死傷者もたらしている。一人当たり所得がたった300ドルの国では新しい"おもちゃ"は、どんなものでもさっそく喜んで使 われることになるのである。

Xieng Khuang州立病院にある4 人用の汚いベッドルームで、私は、詮索好きさ故の最近の犠牲者 である、七歳の少年に会った。彼の父親は「息子の友達が"ボー ル"を見つけたのです。彼がそれを弾ませようとしたら爆発してしまった。彼はすぐに死んでしまったが息子は幸運でした。彼 の友人の死体が沢山の砲弾の破片から息子の身を守ってくれた のです。」と話した。その少年はまだなおショックのあまり目を大きく開き、じっと前をにらんだままである。。「我々が息子を病院へ連れてきた時、医者は彼が助からないだろうと言いました。爆弾の破片が彼の腎臓を通っており、膝蓋骨と骨盤の一部は砕けて いたからです。医者は彼がもう歩けないかもしれないと診断し、 もし歩けるようになったとしても残りの人生は、不自由な足で過ごすだろう、と予測しました。」

病院長のSomsavay Manipakone氏によると、この七歳の少年はここ3ヶ月Xieng Khuangの村の13人目の"爆弾ちゃん"の犠牲者であるという。「これらの犠牲者は報告されたほん の僅かな人たちです。多くの犠牲者は報告されていないのです。 たとえば、彼らは即死してしまったり病院へくる途中に死んでし まったりしている。村人はその人たちを連れ帰り焼いてしまう。 我々のもとには昨年爆弾による患者が30人いましたが、すでに 今年はそれ以上の犠牲者が出ていて、悪い一年になりそうです」 と病院長は話し、ため息をついた。

Stanford氏は、犠牲者のうち10〜20%しか助からないと見 積もっている。「カンボジアにおいて"爆弾ちゃん"は、地雷のように人を傷つけるのにとどめておく兵器でなく、人を殺すためのものなのです。7歳の子どもなんて、半分に吹き飛ばしてしま います。」

Phonsaven県からベトナムの国境へ向かう途中にいくつもあ る村々について、統計報告がとられた。この通り沿いの爆弾の弾 孔の多さは、そこら中にある農夫の竹の小屋の数をはるかに上回っていた。

ある村では、一家族全員が全滅になった。若い母親と子どもたち (2歳から8歳の4人)は、土地を耕している間に1つの不発弾に よって死んだ。その6ヶ月前には彼女の夫が、同じ場所で鍬を爆 弾に当ててしまい死んだところだった。また別のある農夫も、同 じように2年間仕事をしていた地で亡くなった。その間ずっと彼 はアメリカのある教会からラオスの農夫に寄付された三万個の シャベルの一つを使用していた。そのシャベルはここの地形には 適さなかったものの、ラオスの鍬より安全だと考えられていた。 なぜなら斧のように頭の上までふりかざしておろすようなラオ スの鍬には、アメリカのシャベルより大きな衝撃を地面に与え、 隠れた不発兵器を爆発させる大きな危険があったからである。

2年間もその安全なアメリカ製のシャベルを使って骨を折って土 地を耕し莫大な数の"爆弾ちゃん"を掘り出したので、その農 夫はすべての兵器を取り除いたと推測し、もとの効率的な、ラオ スの鍬を使い始めたばかりだったのである。

最も生産性のある若 い世代の人々を失ったことにより、国の人口の85%が暮らす、小 さな農村地域は貧困に陥った。道路工事や灌漑などのインフラ計 画は遅延し、また敷地上の不発兵器のせいでコスト超過になった。また、あるいくつかの土地は危険すぎてまったく使用するこ とができない。

前述の、MAGのスタンフォード氏は言った。「教育大学は昨年解 体されねばいけなくなりました。この地域に金属探査をかけたところ、その大学の場所の下に強い反応を記録したからです。大学 を破壊した後、1500もの爆弾を発見しました。それらは至る所にあるのです。我々は450のモルタル砲弾を校庭で掘り出しま した。この大地から50メートルのところでは160キログラムのリンの爆弾を見つけました。その爆弾は町の中心部全てを破壊するのに十分な威力を持つものなのです。」

Xieng Khuang県での4年間で、MAGはなんとか、ウェール ズとほぼ同じ広さにあたる114ヘクタールの土地の兵器除去を行っ た。その土地の大部分は、開発される候補に挙がっていた、学校や 公共の土地だった。ラオスの人々が自ら、土地の不発弾除去作業 を続けていたのはそう驚くべきことでない。農夫達は土地を耕すことによってしばしば"爆弾ちゃん"や小型の砲弾を発見し た。大型の爆弾は危険にも、不発兵器を解除する少しの知識を 持っている村の"爆弾分解者"によって処理されることが多い。

この村人の対応にMAGと政府は難色を示したが、村人たちは 意味のある地域奉仕活動であるとみなしている。また、爆弾を構 成する物質については、金属と廃棄物の交換が活発に行われてい る。州全体に"爆弾ちゃん"を運ぶのに使われた爆弾の塊用の ケースは、新しく塀の柱や歩道橋、家の支柱、水槽などに転用され た。他の使用済みの兵器類は、家の建設やランプからスプーンに いたるまでの一家の道具にも使われた。

このような環境に育ったため、子どもたちは不発兵器を手で扱うのに慣れてしまっている。無念だが避けられていないのは、子 どもたちが、家の周辺にある無害な物体と、生きた爆弾・砲弾をと りちがえてしまうために多くの死へと繋がっていることである。

「廃棄物の取引者はここにトラックで現われ、爆弾から金属を探 しています。」32歳の女性が話してくれた。彼女は2年前に13 歳の息子を"爆弾ちゃん"の爆発で失っている。「子どもたちは小さな爆弾をプラスチックのバッグに入れて集め、森林で見つ けた他の鉄やアルミ片とともに売るために、爆弾を持ちかえるの です。」

「我々が子どもにその危険性を教えても事故は起こりつづ けるでしょう。」とスタンフォード氏は述べた。「子どもたちがそれが何かを知っていても、爆弾の塊を拾う理由を、誰が分かると言うのでしょうか。」我々の調査は、小型の砕石ドリルの音によって妨害された。水道事業の労働者がメインストリートを掘ってい たのである。スタンフォード氏は激怒して言った。「知事たちへも う一通手紙を書かなければ。知事たちは、我々が不発弾撤去作業 を始める前にあのように仕事をOKしてしまいます。あの土地は まだ不発弾が取り除かれていない。彼らは自分達が何にぶち当たるか分かっていないんです。」

人口が戦前の数値に戻るに従い、MAGによる州の土地開発と兵器除去はその増加に追いつかなくなる、とスタンフォード氏は認めている。「人口が増えたということは、より多くの農地が必要になったことを意味し、村人は森林地帯を耕作地へと開拓せざる を得なくなる、ということを意味します。この辺りの土地は戦争 以来使われていないので、ここに埋まっている兵器の量は爆撃直後とほぼ同じなのです。」

アメリカは、MAGを倣う機関や、ラオスのほかの地域で爆弾の除去作業を始めた貴重な少数の西洋の機関の活動からは、明らかに蚊帳の外にいる。MAGの作業には1年にたった100万ドル の予算しかない。対照的に、アメリカの爆撃はベトナム戦争の九年間を通じてアメリカの納税者に、一日につき2億ドル以上も支 払わせたのに、である。

スタンフォード氏は次のように話している。「我々は完全に寄付金に頼っています。今年はスウェーデン、デンマーク、オランダの 政府から多くのお金を頂きました。アメリカ政府は1998年のために10万ドルをと約束しましたが我々はまだそれをもらって いません。」そして憂鬱そうに付け足した。「ラオスが兵器が撤去 されてきれいな土地になる日は来ないでしょう。村、人々が家を 建てたいと思う土地の全てをきれいにすることは不可能です。こ の状況全部をなげだしてしまうことは簡単です。しかし私は、私が一つの命を救えるのなら、それで十分だと考えています。そんな感情が、このように私を続けさせているのです。」

翻訳 小林裕美子・福森真理子